サッカー文武両道

Jリーガー(サッカー選手)の文武両道

はじめに

当ブログではサッカーと勉強の両立をテーマに情報発信をしています。

今回の記事では『Jリーガーの文武両道』をテーマにいかにサッカーと学業を両立してきたのかを紹介します。当ブログの読者の方なら参考になる内容ばかりなので最後まで読んでみてください。

ロクバン
簡単に長男の紹介をさせてください。

小学校入学前からサッカーをはじめた長男がサッカーと勉強を両立しながら医学部合格を目指す過程を発信しています。サッカーと中学受験を両立しながら中高一貫校に進学しました。中学時代は地域リーグ所属の強豪クラブチームに所属。チームは全国大会に相当するインターシティカップまであと1勝に迫るも、長男はまさかのベンチ外。高校からは部活でサッカーを続けながら、ビッグマウスで恥ずかしいレベルですが、医学部合格を目指して勉強に頑張っています!(いや、頑張っているはず??)

この記事を書いたのはこんな人

 ロクバン

  • 現在、中高一貫校の英語教師。この間、サッカー部顧問の経験あり。
  • 九州地方在住の二児の父親。
  • 長男は中高一貫校に通いながら強豪クラブチームに入団するも、補欠を経験。ビッグマウスですが、医学進学を目指して奮闘中。
  • 長男のサッカーと勉強の両立をサポートする中で得た、知識や経験を情報発信。
  • サッカー少年達が勉強の大切さに気づき、勉強を頑張るのを応援することを(大げさですが)このブログのミッションとしています。




【ストーリー①】林幸多郎選手の場合

明治大学から横浜FCに入団し、サイドバックとして主力を担う林幸多郎選手。

林選手は小3からサッカーを本格的にはじめます。「学校の授業もサッカーと同じくらい面白かった。」とこの頃からサッカーと勉強の両立は当然のことと捉えていたのでしょうか。

サガン鳥栖U15にセレクションで合格すると同時に、中学受験にもチャレンジし、地元では進学校として有名な県立中高一貫校の香楠中学に合格。ユース時代はサガン鳥栖U18に所属。チームは無敗でプリンスリーグ九州を制するチームで主将として活躍しました。

ユースからは活動の場を鳥栖市から佐賀市に変わってしまったこともあり、エスカレーター式で進級できる県立鳥栖高校への進学は断念しました。しかし、地元では進学校として有名な佐賀北高校に入学します。J下部チームで活動しながら、成績は常に学年10位内を維持していたというから驚きです。

トップチーム昇格には至らなかったものの、名門明治大学へ進学。明治大学のサイドバックと言えば、長友選手の系譜を引き継ぐことになります。大学進学後もサッカーと勉強の両立には手を抜くことはありません。朝練が終わった朝9時からは授業を受けて、授業の合間にも自学に打ち込んだそうです。佐賀大学医学部に進学した兄の影響を受けて、「兄が医者ならオレは弁護士だ。」と司法試験を本格的に目指す決心を固めたそうです。

大卒でのプロ入りが叶わなければ大学院に進み司法の勉強を極めようと意識しており、明治大学の分厚い選手層を乗り超える努力を続けながらも勉強を疎かにすることありませんでした。

大学4年次には監督から主将の依頼されるも、「司法試験を目指している。受験のため公式戦を休むこともあるから」という理由で一度は固辞。しかしながら、監督から「サッカーも司法試験も手を抜くな」と背中を押される形に。信頼の厚さを伺い知れます。

司法試験のためにリーグ戦を欠場。翌日に、本来なら出場するはずのない横浜FCとのトレーニングマッチで関係者の目に止まりオファーを受けることになりました。どこにチャンスが転がっているかはわからないものですね。

横浜FC入団後も主力選手として出場時間を延ばしつつも、司法試験の勉強も力を抜くことありません。2024シーズンから活躍の場を町田ゼルビアに移します。

 

【ストーリー②】添田隆司選手の場合

添田隆司選手は筑波大附属小学校へと進み、その後も同附属中学校、同附属高校と進学。超名門校で学ぶ傍ら、サッカーは部活動ではなく、クラブチームでプレー。小学校時代に横浜バディーSC(現バディーSC)、中学ではBANFF横浜ベイ(現BANFF横浜FC戸塚)に籍を置き、高校時代は横河武蔵野FCユース(現東京武蔵野FC)でクラブユース選手権にも出場しています。

中学から高校時代はチームの主力選手ではなかったそうです。高校時代は、「8番手くらいで試合に出ている感じでした。8番手には8番手なりの戦い方がある。」といかにしてチームで重要な存在になるかを学ぶことができたと回顧しています。

筑波大附属高校から東大に進学。11月までクラブユース選手権を戦いながらの合格なので驚くばかりです。本格的なサッカーは大学までと考えていたようで、実際に三井物産からの内定ももらっていました。当時、東大のヘッドコーチだった林健太郎氏のつながりで藤枝MYFCへ練習参加。当時の藤枝の社長であった小山淳氏から社員選手として働きながらプレーするアマチュア選手としてのオファーを受ける。

悩みに悩んだ挙げ句、大手企業の内定を蹴って、Jリーガーになる決断をしました。

決断の背景には、「これまでも高校・大学とサッカー強豪校に進む選択肢もあったそうですが、どこか踏ん切りが付かなかったそうです。東大を卒業するという最後の最後というタイミングで本格的にサッカーを目指す最初の一歩を踏み出せた。」と振り返っています。

現役引退後は2018年からスポーツX株式会社の代表取締役社長に就任し、同年12月からはおこしやす京都AC株式会社の代表取締役社長として活躍しています。

 

【ストーリー③】中町公祐選手の場合

横浜マリノスで主力選手として活躍した中町公祐選手は、マリノスから2年契約延長のオファーがあったにもかかわらず、退団。その後、日本とアフリカをつなぎたいという想いから、アフリカのザンビア共和国に渡り、ザンビアのプロサッカー選手として現役引退を迎えました。

引退までの経緯も異色なら、キャリアも異色。

ジュニアユース時代から頭角を現し、前橋育英高校などの強豪校からの誘いもある中、県立進学校である高崎高校への進学を決める。高崎高校は全国大会には遠いレベルであったにも関わらず、自身は高校卒業と同時に湘南ベルマーレの入団を決めている。高卒プロも驚くのに、高校卒業と同時に慶應義塾大学にAO入試で合格し、現役慶應義塾大学生のJリーが誕生した。プロの熱い壁に阻まれ、3年で湘南ベルマーレを退団するも、慶應義塾大学サッカー部に入り、そこからの活躍で大学卒業時にはアビスパ福岡からオファーをもらう。

アビスパをJ1に導いたのちに横浜マリノスへ移籍し、その後の活躍は先述の通りである。

現在は母校慶應義塾大学サッカー部監督に就任した。

 

【ストーリー④】久木田紳吾選手の場合

東京大学出身の初めてのJリーガーといえば久木田紳吾選手。決してサッカーのエリートコースではないところからJリーガーにまで上りつめました。

熊本県出身の久木田選手は熊本YMCAで小学校3年生からサッカーをはじめた。目立った選抜歴があるわけではないどこにでもいるサッカー少年だったと当時を振り返っています。親から褒められたい。目立ちたい。そんな気持ちから勉強にはまじめに取り組んでいたようで、授業を積極的に受けることで学力が伸びていきました。

中学校は熊本YMCAのジュニアユースへ進み、このときに初めて県選抜に選ばれます。県選抜として遠征した大会で全国トップレベルとの選手と対峙することでトップレベルとの差を痛感したそうです。一方で、勉強は学校の授業や宿題をしっかり取り組みながら学力を積み上げ、サッカー強豪高校へ進めば埋もれてしまうという思いもあってか、県立トップ校の熊本高校へ進学を決めます。

県内随一の進学校でサッカーと勉強の両立の日々が続きます。サッカーでは1年生からレギュラーポジションを掴みます。ただし、勉強の難易度は一気に上がったようです。

「高校入学後は予習と復習をしないとついていけなくなりました。勉強のレベルが上がり、予習、復習は毎日1時間半ぐらいはやるようになりました。特に大変だったのは理系科目。数学や物理などは予習と復習が必要でしたね。国語などの暗記系科目はやらなくても大丈夫でしたが、理数系の科目は公式の意味を理解していないと授業についていけなかったんです。なので、理系は予習、文系は復習をメインに取り組んでいました」

と当時を振り返っています。

高校2年で訪れた東京大学オープンキャンパスが転機になり東大を志望。高校3年生のインターハイ予選の準々決勝で敗れてからは独学で受験勉強を続け、現役で東京大学理科2類に合格しました。

東大入学後に「東大生初のJリーガー」になるという目標を掲げ、プロを目指してフィジカルレベルから鍛え上げました。自作のプレー集をJリーグチームに送るなど地道な努力が実り、当時J2のファジアーノ岡山から練習参加のオファーを受けて、プロ入りを実現しました。

 

まとめ

ロクバン
最後まで読んでいただきありがとうございます!

今回はJリーガーの文武両道について紹介しました。誰にでもサッカー選手として終わりが来ます。ここで紹介した4人の選手はプロ選手までたどりつきましたが、そこまで届かない選手がほとんどなのです。サッカーだけでなく勉強も真剣に取り組んできたことでセカンドキャリアでも活躍の場があるようです。

勉強が選択肢を広げる好例です。

 




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